昭和40年06月02日 夜の御理解



 (途中から)
 進めさせて頂いてから、どう言う様な気持になっておる事が一番有難いかと。これも私これから先もどんな風に変わるか解りません。けれどもまあ私今日まで信心を続けてき、進めさせて頂いてから、この感じる事。どう言う様な気持にならせて頂いたが一番、有難いかと言う事。どうでもよいと言う事ですね。必ず右でなかなければならない、左でなかなければならない、と言う事じゃないという、ああ成ります様にこう成ります様に、と言う事じゃないと言う事。
 どうでも良いと言う事です。それでこれはほんなら非常にこう消極的なですか、まあ何とかなろうたいと、例えば鍋ん中の材料でもどうかなよるとじゃから。そう言う様なものではないです。信心で言うどうでもよいというのは。必ずおかげの方にしかならん、という思いでありますから、それを確信することですから、もう大変な積極的な信心が出来らなければ、どうでもよいという気持は生まれない。
 積極的な信心が出来ずして、例えばどうでもよいというのであったら、是はまあこんな怠慢な事はないと。それは所謂どうとなろうてい主義なのであって、私が言うこれ私が今日まで信心を進めさせて貰い、分からせて頂いてどういう、心の状態にならせて頂いたが、一番有難いかと言う事は、一切がどうでも良いと言う事。もうどうでも良いと言う様な時には、もう一生懸命の信心が出来とらなければ、このどうでも良いという心は生まれて来ないと言う事。
 信心も出来ずにもし信心も出来ずにっち言うが、自分なりにですたい一生懸命の信心はでけんなりに、どうとかなろうたいという、どうでも良いと言う事は、だから意味が違うと。積極的な一生懸命な信心ができさせて頂いて、神様がどうぞ最高のおかげを下さるように、ね。その最高のおかげを下さる事が、なら最高のおかげとはどれか、どこかと言う事は分からん私共には。
 ですから言わば積極的な、言わば信心をさせて頂いておらなければ、どうでも良いというものは生まれて来ないのです。そのだから下の下の考え方ですね。それを例えば悲しい時の神頼みと言う様な信心であったり、またこの願っておる。その一つの願いに向かって一生懸命、その修行させて貰っておる。だからおかげになるものだとこう確信する、その事を。だからそのまいっちょ上のもの。あのこれは私が今日まで信心を進めさせて頂いてから、まあ現在の私の信心の、最高の有難い境地というのは。
 どうでも良いと言う事だ。そのどうでも良いというのは、自分ながら神様に心を打ち向けさせて貰い、一生懸命の信心修行が出来ておる時でなかならければ、頂けるものではない。心をどうでも良いと言うのだと。いうふうに私は思うんですがね。どうぞ皆さんこのどうでも良いと言う様な信心。そこん所を一つ間違えない様に、信心が勤める事も、修行する事も、ね、神様の心に本気で副おう、と言う様な気持もなんせんなり、どうでも良いと言うのであったらこりゃ大変。これはもう怠慢堕落である。
   おかげ頂かなきゃいけません。